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ご主人様の精液検査の結果用紙を見て、心がざわつき、目の前が少し暗くなってしまったような気持ちになっていませんか?
「運動率が数%しかない…」 「この数値じゃ、顕微授精すらできないんじゃないか」「ネットで検索すると悪い情報ばかり目につく…」
そんな不安を抱え、夜遅くまでスマートフォンで必死に情報を探している方もいらっしゃるかもしれません。
私たちは、不妊治療専門クリニックで働く胚培養士として、顕微鏡を通して何千例、何万例という卵子、精子、受精卵と向き合ってきましたが、これだけは確実に言えることがあります。それは、検査結果の数値がどれほど悪くても、即座に妊娠を諦める必要は全く無いということです。
この記事では、顕微授精における「運動率の最低ライン」の真実について、医学的な根拠と現場の「リアル」を交えて、どこよりも詳しく解説します。また、数値が悪くなってしまう原因や、今日からできる対策、そしてパートナーとの接し方まで、専門家の視点で網羅しました。
これを読み終える頃には、漠然とした不安が消え、「私たちにもできることがある」と、前向きな気持ちになっていただけるはずです。少し長くなりますが、あなたの妊活の道標となるよう心を込めて書きましたので、ぜひ最後までお付き合いください。
顕微授精に必要な「運動率の最低ライン」の真実
「顕微授精をするには、最低でも何%の運動率が必要ですか?」
これは診察室でもよく聞かれる質問なのですが、回答は非常にシンプルで「運動している良好な精子が1個」いれば治療は可能です。
極論に聞こえるかもしれませんが、これが顕微授精(ICSI:イクシー)という技術の最大の強みでもあります。
通常、自然妊娠や人工授精、そして体外授精では、精子自身の力で長い道のりを泳ぎ、卵子にたどり着いて卵子の細胞内に侵入する必要があります。そのためには、数千万という数と、力強い前進運動率が不可欠です。
しかし、顕微授精では全く異なります。 ガラスの細い管(ピペット)を使って、1個の精子を熟練した胚培養士の手で卵子の中心部へ直接挿入します。
たとえ運動率が1.0%であっても、あるいは検査上は0%と書かれていても、広大な視野の中からたった1個でも生きて動いている精子が見つかれば受精のチャンスは生まれます。採卵で卵子が10個採れたなら、少なくとも10個の運動している精子を見つけ出せば治療を前向きに進めることができます。
「全滅」に見えても、実は生きていることがある
「検査結果には不動精子(動いていない精子)ばかりで、運動率0%と書いてありました…」と涙ながらに相談されることもあります。
ここで知っていただきたいのは、「動いていない=死んでいる」とは限らないということです。 私たち胚培養士は、全く動かない精子に対して特殊な刺激を与えたり、特定の薬剤を使ったりして「生きているかどうか」を確認する技術を持っています(詳しくは後述します)。 動いていなくても、生きてさえいれば、顕微授精が可能になることがあります。
したがって、検査上の数値としての最低ラインを気にするよりも、「培養室の技術で生存精子を見つけられるかどうか」が本当のボーダーラインとなります。
検査結果の読み方:WHO基準値と「調整後」の数値
精液検査の結果用紙には、WHO(世界保健機関)が定めた基準値が記載されています。しかし、この数値をそのまま鵜呑みにして落ち込む必要はありません。ここでは、臨床の視点での「結果の読み解き方」を伝授します。
WHOの基準値は「自然妊娠」の目安に過ぎない
よく目にする以下の基準値をご覧ください(WHOラボマニュアル2021年版より)。
- 精液量: 1.4ml以上
- 精子濃度: 1,600万/ml以上
- 総運動率: 42%以上
- 前進運動率: 30%以上
- 正常形態率: 4%以上
重要なのは、これらが「自然妊娠に至ったカップルの精液所見の下限値(下位5%のライン)」を統計的に出したものだという点で、あくまでも妊娠を目指すための目安であり妊娠が可能かどうかを決めるものではないということです。
顕微授精を前提とする場合、私たちはこの基準値を「自然妊娠は難しいかもしれないが、顕微授精なら十分に妊娠を目指せる」という判断材料として見ています。
本当に見るべきは「調整後」の数値
多くのクリニックでは、採精された精液をそのまま使うのではなく、「洗浄・濃縮」という処理を行います。遠心分離機にかけて、雑菌や死滅した精子、白血球などを取り除き、元気な精子だけを集める工程です。
検査結果が悪くても、「調整後」に元気な精子が集まれば全く問題ありません。
例えば、元の運動率が10%しかなくても、洗浄濃縮処理を行うことで、運動率が50%以上に上がってくることもよくあります。 診察の際は、「調整後の所見はどうでしたか?」と医師や胚培養士に尋ねてみるのも良いでしょう。
「総運動率」より「前進運動率」
検査用紙を見る際、単に動いている「総運動率」だけでなく、「前進運動率(真っ直ぐ元気に進んでいる精子の割合)」に注目してください。 精液検査では、その場でピクピクしているだけの精子も、真っすぐ早く泳いでいく精子も、どちらも運動精子としてカウントされますが、妊娠のための重要となるなのは卵子に向かって行くポテンシャルを持った前進運動精子の割合です。
前進性の高い精子ほど受精能力が高いと考えられているため、顕微授精においても「前進する精子」を優先的に探します。
なぜ運動率が低くなる?考えられる原因とリスク
「夫は健康そのものなのに、なぜ?」と疑問に思う方も多いでしょう。精子の運動率が低下する「精子無力症:Asthenozoospermia」の原因は多岐にわたりますが、大きく分けて以下のような要因が考えられます。
精索静脈瘤(せいさくじょうみゃくりゅう)
男性不妊の原因として最も多いのがこれです。精巣(睾丸)の周りの静脈に瘤(りゅう、こぶ)ができて、血流が停滞してしまう病気です。血流が悪くなることで精巣の温度が上がり、精子を作る機能や運動率が低下します。根本治療を望む場合には泌尿器科での外科的な手術しかなく、選択肢の一つになります。
酸化ストレスと生活習慣
精子は「酸化ストレス(身体のサビ)」に非常に弱いです。
- 喫煙
- 過度なアルコール摂取
- 肥満
- 睡眠不足
- 長時間のサウナや長風呂(熱によるダメージ)
これらは活性酸素を増やし、精子の膜を傷つけ、運動率を低下させる要因になります。
加齢による影響
卵子ほど急激ではありませんが、精子も年齢とともに質が変化します。35歳を過ぎると徐々に精液量や運動率が低下し、DNA損傷率が高くなる傾向にあります。
「たまたま」悪かっただけ
意外と多いのが「たまたま悪かった」ケースです。精子の状態は、その日の体調、ストレス、禁欲期間の長さ、さらには季節によっても大きく変動します。 一度の結果が劇的に悪くても、1ヶ月後の再検査では基準値をクリアしている、ということも珍しくありません。「今回の数値が全てではない」と捉えることが大切です。
【胚培養士の現場】私たちはこうして「最高の1個」を選び抜く
ここからは少し専門的な、私たち培養士の「職人技」の世界をご紹介します。皆さんが採卵を終えて休んでいる間、培養室の奥では静かなる熱い戦いが繰り広げられています。
高倍率顕微鏡での「捜索活動」
運動率が極端に低い、あるいは運動精子が認められない場合、私たちは顕微授精専用の倒立顕微鏡を使い、シャーレの中を何十分もかけて、端から端までくまなく「捜索」します。精子が十分に認められる場合でも「良好精子の選別」のために端から端まで少しでも良い精子を探していきます。まさに広大な砂漠の中から一粒のダイヤモンドを探すような作業です。
わずかでも尻尾を振っている精子、微かに首を動かしている精子を見つけた時の喜びは、言葉では言い表せません。「これで受精させられる!」と心の中でガッツポーズをし、絶対に逃さないよう慎重にピペットで捕獲します。
不動精子の生存確認テクニック
もし、動いている精子が1個も見つからなかった場合どうするか。ここで胚培養士の腕が試されます。
- 精子活性化剤(ペントキシフィリン等): 特定の薬剤を精子に添加します。すると、仮死状態だった精子が代謝を活性化させ、動き出すことがあります。この反応を見て、生きている精子を選別します。
- HOSテスト(低浸透圧膨化試験): 浸透圧の低い液に精子を入れると、生きている精子は膜が機能しているため、水分を吸って尻尾がクルッと膨らみます。これを目印に生存精子を選びます。
このように、私たちはただ漫然と選んでいるのではなく、科学的な根拠と熟練の技術を組み合わせて、ベストな1個を探し出しているのです。
成功率を上げるための「先進技術」と「オプション」
運動率が低い、あるいは過去に顕微授精でうまくいかなかった場合、標準的な顕微授精に加えて「先進医療」や「オプション技術」を組み合わせることで、成績が向上することがあります。
IMSI(イムジー):超高倍率での選別
通常の顕微授精(約200~400倍)よりも遥かに高い、約1,000倍以上の倍率で精子を観察します。 これにより、精子の頭部にある小さな空胞(穴)や、微妙な形の異常を発見できます。空胞がある精子はDNA損傷のリスクが高いと言われており、これを避けて、形態的に最も美しい精子を選ぶ技術です。
PICSI(ピクシー):生理学的な選別
ヒアルロン酸を高濃度に添加した培養液を使います。成熟した質の良い精子は、ヒアルロン酸にくっつく性質を持っています。 運動している精子の中でも、ヒアルロン酸に結合した(=成熟度が高くDNA損傷が少ない可能性が高い)精子を選んで顕微授精を行う方法です。
卵子活性化処理(カルシウムイオノフォアなど)
精子の運動率が低かったり、精子の力が弱かったりすると、受精のスイッチを入れる力が不足し、受精しないことがあります。その場合、受精後に人為的にカルシウムイオンなどの刺激を与え、卵子に「精子が入ったよ!」と気付かせてあげる処理を行います。これにより、受精率が劇的に改善するケースがあります。
これらの技術が必要かどうかは、精子の状態や過去の治療歴によります。ぜひ診察時に相談してみてください。
今日からできる!精子データの改善を目指す生活習慣とサプリメント
精子は毎日作られています。今日からの生活改善が、約3ヶ月後(精子が作られてから出てくるまでの期間)の結果を変える可能性があります。ご主人様にアドバイスする際の参考にしてください。
「温めない」が鉄則
精巣は熱に非常に弱いです。そのため、身体の外にぶら下がっています。
- 長風呂、サウナを控える
- 膝上でノートパソコンを使わない(熱が伝わるため)
- ブリーフやボクサーパンツよりも、通気性の良いトランクスを選ぶ
- 長時間座りっぱなしを避ける(時々立って股間の風通しを良くする)
酸化ストレスを防ぐ栄養素(抗酸化作用)
サプリメントや食事で積極的に摂りたい栄養素です。
- 亜鉛: 「セックスミネラル」とも呼ばれ、精子の形成に必須。牡蠣、レバー、牛肉などに多い。ただし、毒性もあるため摂り過ぎに注意。
- コエンザイムQ10: 強力な抗酸化作用があり、精子のエネルギー産生を助け、運動率向上に期待できる。
- ビタミンC、ビタミンE: 精子を酸化ダメージから守る。
禁欲期間は「短め」が正解
「溜めた方が濃くなる」というのは昔の迷信です。禁欲期間が長すぎると、古い精子が体内で死滅し、活性酸素を出して新しい精子まで傷つけてしまいます。 顕微授精の場合でも、禁欲期間は1日~3日程度が理想的です。なるべく新鮮な精子の方が、運動率もDNAの状態も良いことが多いのです。
【妻の悩み】数値が悪かった夫に、どう声をかけるべき?
ここは治療の技術的な話ではありませんが、現場で多くのご夫婦を見てきた私だからこそお伝えしたいことです。
男性にとって、精子の数値が悪いことは、女性が想像する以上に「男性としての自信」を喪失させ、深いショックを受ける出来事です。中には、「自分が原因で申し訳ない」「治療をやめたい」と言い出す方もいらっしゃいます。
NGワードとOKワード
- ×「あなたのせいでうまくいかない」 事実はそうであっても、これを言葉にすると夫婦の溝は決定的なものになります。
- ×「もっとお酒やめてよ」「サプリ飲んでよ」 正論ですが、追い詰められている時に命令口調で言われると、逃げ出したくなります。
- ◎「顕微授精なら、1個いれば大丈夫なんだって」 培養士の話として、「数」よりも「選ぶ技術」が重要であることを伝えてください。
- ◎「二人の子供が欲しいから、一緒に頑張りたい」 「精子が欲しい」のではなく「あなたとの子供が欲しい」というメッセージは、男性のプライドを救い、治療へのモチベーションになります。
男性は論理的な説明を好む傾向があります。「感情」で訴えるよりも、この記事にあるような「技術的な裏付け(1個いれば可能、選別技術がある)」を見せて安心させてあげるのも一つの手です。
よくある質問(FAQ):禁欲期間や当日の体調について

最後に、患者様からよくいただく細かい疑問にお答えします。
Q1: 採精の当日に風邪をひいて熱があります。影響しますか?
A1: 38度以上の高熱が数日続いた場合、精子の造精機能に影響が出る(一時的に数が減る、運動率が落ちる)ことがあります。ただし、影響が出るのは熱が出てから数週間後~2ヶ月後であることが多いです。当日の発熱であれば、すでに作られている精子には大きな影響がないことも多いですが、無理は禁物です。まずはクリニックへ連絡し、発熱がある場合はクリニックへの来院は控えてください。
Q2: 運動率が悪いと、生まれてくる子に障害が出やすくなりますか?
A2: 運動率の低さと児の先天性異常(奇形など)の発生率には、直接的な強い関連はありません。ただし、精液所見が不良であることが遺伝子疾患や染色体異常に由来している場合、特にY染色体の微小欠失などが原因である場合には、生まれてくる児にその遺伝形質が伝わる可能性があります。生まれてくる児が男児である場合、将来的に、同じように精子が少なくなる体質が遺伝する可能性はあります(これを遺伝カウンセリングで相談することも可能です)。
Q3: 持ち込み(自宅採精)だと運動率は下がりますか?
A3: 病院で採精してすぐに提出するのがベストですが、1~2時間以内であれば、保温に気をつければ極端に悪化することはありません。ただし、冬場に冷やしてしまったり、カイロで温めすぎたりするのは厳禁です。「人肌(20~30度くらい)」を保って運ぶのがコツです。運動率が心配な場合は、可能であれば院内採精をおすすめします。
Q4: 精子が1個もいない(無精子症)と言われました。もう無理ですか?
A4: 射出された精液中に精子がいなくても、精巣の中には精子が作られている可能性があります。泌尿器科医と連携して、精巣から直接組織を採取する手術「TESE(精巣内精子回収法)」を行えば、精子が見つかるケースは多々あります。TESEで回収した精子は運動していないことが多いですが、顕微授精であれば受精・妊娠が可能です。
数値にいつまでも支配されるのはこれで終わりにしましょう
長くなりましたが、最後までお読みいただきありがとうございました。
不妊治療、特に顕微授精における精子の運動率について、皆さんに一番お伝えしたいことはこれに尽きます。
「運動率という数字は、あくまで全体的な傾向にすぎない」
0%であれ、1%であれ、顕微鏡の下で私たちが「良好な1個の精子」を見つけ出し、大切に卵子へ送り届けることができれば、妊娠の可能性は大幅に上がります。 私たち胚培養士は、どんなに厳しい数値であっても、その中から最高の勇者を見つけ出すために、日々技術を磨き続けています。
「この数値では無理だ」とご自身たちだけで判断して、暗い気持ちで日々を過ごすのはあまりにももったいないことです。 現代の生殖医療の技術は、皆さんが想像している以上に進歩しています。
もし今、検査結果を握りしめて不安に震えているなら、ぜひ一度、信頼できるクリニックの扉を叩いてみてください。そこには、数値を超えて希望を繋ぐ私たちのような専門家チームが、あなたたちご夫婦を全力でサポートするために待っています。